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酪農と聖書⑫ 聖書における土と三愛精神

掲載日:2019.10.17

酪農学園大学獣医学群
獣医学類(獣医倫理学)准教授

髙橋 優子

 

 「あなたは六年の間、自分の土地に種をき、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。」(新共同訳 出エジプト記23:10-11)

 古代の農業においては現在使用されているような化学肥料は存在しなかったため、6年耕作した後には1年休ませることがヘブライ語聖書には定められていた。それは「貧しい人々や動物たちが自然に生えているものを食べられるように…」という福祉的発想とセットになっているが、もし本当に「6年耕作1年休耕のサイクルを守り続けたならば、化学肥料なしで現在までやってこられたかもしれない」という説がある。そして、そこには酪農学園の循環農法の理念と完全に呼応する自然のサイクルの尊重がみられるのである。

 新約聖書になると、農業はもっと抽象的なものと観念されるようになったと思われる。それは、初期キリスト教徒が主として都市生活者であったことと関係しているであろう。有名な「種蒔く人」のたとえに出てくるのは“四つの種類の土”である。道端の土に落ちた種は鳥に食べられ、石だらけのうすい土に落ちた種はすぐ枯れてしまう。茨の間の土に落ちた種は茨にふさがれ成長できず、良い土に落ちた種は大いに実を結んだ-というたとえ話である。これはもちろん、イエスが信仰について教えているところであって、「信仰=種」が実を結ぶためには「良い土=良い環境」が必要だと言っているのである。

 聖書における土は、そこから人が取られたところのものであり、いずれは返る所である。ヘブライ語で土は「ダーマー」であり、これは血の「ダーム」と同根である。そして「ダーマー」から取られた人間は「アーダーム」である。人間はそもそも土なのであるが、神がそれに息(霊)を吹き入れて生命を持つものとした-というのが聖書の世界観である。

 「神を愛し人を愛し土を愛す」という三愛精神は、このような世界観を前提にしていると思われる。神が人を土から創り、いつか人は土に返る。もちろん、牛をはじめとする動物も植物も神が創ったものと観念されており、人はその環境世界を「善良な管理者」として管理する責任を与えられているのである。

 土にすぎない身でありながら、ほかの被造物をも管理する責務を持つのが人間である。やがて土に返る日まで人は、貧しい人々や動物のためにも生存に足る食料を正しい方法で得るために働くのである。「神」という語が入ると、何か特殊なことを言っているように響くかもしれないが、「神・人・土」は「天地人」とほとんど同義であるといってよい。要するに、世界を丸ごと愛すること、それこそ三愛精神が指示する理想であり、環境に負荷をかけない有畜農業の理想なのである。(おわり)