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食品

世界の乳文化図鑑⑦ 草原の名酒「馬乳酒」

掲載日:2020.05.20

酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美

動物性素材からの乳酒

“馬乳酒”という名を聞いたことのある人も多いことと思います。まさに読んで字のごとく「馬の生乳を乳酸菌と酵母で発酵させたどぶろく状の乳酒」です。モンゴルではアイラグ、ロシアなどではクミスと呼ばれています。

人はこれまで「御神酒上がらぬ神はなし」との言葉もあるように、神様と共に味わい、特別な気分、酩酊を求めるための飲料として酒を作ってきました。今日、宗教的な理由で禁酒の国々でも、かつては酒を作っていた例が文献から多くうかがえます。人と酒には、長くて深い関係があるのです。

“酔う”ためのアルコール発酵を酵母が生成するには糖源が欠かせません。従って、多くの酒が植物性の素材で作られてきました。ヨーロッパを例に挙げると、熱い地域では赤ワイン、緯度が上がって涼しくなると白ワイン、その上の地域ではビール、その次はウイスキーなどの蒸留酒…。作られる酒の種類と地域・気候、産物が見事にリンクしてきました。

ところが農耕を営まず、家畜の恵みである乳・肉を生活の柱としてきた乾燥地帯の遊牧世界では、家畜の乳という動物性の素材で乳酒を作ってきました。中でも、最も愛されてきたのが馬乳酒です。

ビタミンCが豊富

馬乳の特徴は乳糖量が多いのでチーズなど固形の乳製品を作ることができず、遊牧民はもっぱら馬の生乳を専用の発酵容器に注ぎ、数千回攪拌して馬乳酒を作ってきました。この攪拌という作業が、アルコール分を含む馬乳酒の特質を形成する上での大きな鍵です。遊牧民の馬乳酒製造については、紀元前5世紀にヘロドトスが著した『歴史』にも記述があります。

モンゴルでは、今日も家庭単位で馬乳酒が盛大に作られています。馬乳は全て自家消費と考えられているため、その生産量はモンゴルの基幹産業である牧畜の統計(農牧省作成)においては牛などと異なり標記区分がありません。

馬乳酒は、子馬のための乳を成長を妨げない範囲で人が分けてもらって作られるため、製造は6月末~9月末の3カ月程度と期間限定です。白色で軽い発泡性を持ち、アルコール度数は2.5%前後です。酸味が強く、ビタミンCが豊富に含まれています。遊牧という生活形式から、かつて通年で野菜や果物を摂取することがほとんどなかった草原では貴重なビタミンCの供給源でした。

遊牧民は、こうした経験に基づく知識を長年大切に伝承してきました。私たちはいま一度、世界の民族が伝承してきた“食”に関わる知恵と謙虚に向き合う必要があるのではないでしょうか。

ちなみに、これまで「遊牧民はお茶からビタミンCを摂取してきた」というのが通説でしたが、飲用している茶葉を測定したところ、ビタミンCは含まれていませんでした。茶葉をレンガ状に圧縮する過程で失活したのでしょう。

大人も子供も好きなだけ

モンゴル遊牧民の馬乳酒飲用については、13世紀にフランスから元帝国へ遣わされた修道士ウィリアム・ルブルクが「モンゴルの男性はクミスを大量に飲むことを好み、クミスのある期間は食事をせずクミスだけを飲んでいる」と驚きを持って著書に記しています。この大量飲用は今日も行われ、子供にも健康に良い飲み物として好きなだけ飲ませています。酒という意識は薄いようですが、大量に飲むとすっかりいい気分に…。

首都ウランバートルに住む人々は、夏になると馬乳酒をたらふく飲むことを楽しみに、草原の親戚、知人を頼って大移動し、馬乳酒ざんまいです。ああ、私も馬乳酒を飲みに草原へ行きたくなってきました。

世界の乳文化図鑑⑦ 草原の名酒「馬乳酒」

馬乳酒の発酵容器フフル

世界の乳文化図鑑⑦ 草原の名酒「馬乳酒」

馬の搾乳