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酪農と聖書① 蹄が分かれ、反すうする牛は“清い動物”

掲載日:2018.11.02

酪農学園大学獣医学群
獣医学類(獣医倫理学)准教授

髙橋 優子

 2015年の春、筆者は22年ぶりに北海道へ戻って来た。酪農学園大学に奉職することになり、久しぶりに牛を見て何ともいえない懐かしさを味わった。亡くなった父方の祖父母は、北海道十勝地方で酪農を営んでいたので、遊びに行くといつも牛を見ることができた。幼い頃は子牛に追いかけられた思い出もある。父が獣医学者だったので、休みの日など父の職場について行くとやはり牛を見ることができた。子牛にバケツの哺乳瓶でミルクを与えるところがかわいらしく、記憶に残っている。

 大学に入ってから、ずっと北海道を離れて文系の勉強や仕事をしていたので、次第と筆者にとって牛などの動物は何かファンタジーのようなものになっていった。祖父母の代は酪農家で、父の代は獣医学者、そして筆者の代ではホルスタイン・グッズを集めるただの“動物好き”という具合にだんだん現実の動物から離れてしまっていた。

 しかし2015年、日本最初の「獣医倫理学研究室」を大学に設置していただき、キリスト教学や獣医倫理学を教えるようになって現実の酪農の世界のことに思いをめぐらす機会が増えてきた。自分のルーツを考えると、実にありがたいことである。

 聖書にはたくさんの動物が出てくる。旧約聖書の中では牛と羊の重要性がとても高い。それは牛や羊が“清い動物”であり、神に捧げたり、人が食べたりできる動物とされているからである。旧約聖書では「蹄が分かれており」「反すうする」という二つの条件を満たさない動物は清くないと考えられている。ユダヤ教徒やイスラム教徒はこの教えのために今でも豚肉を食べない(キリスト教徒は「真理はあなた方を自由にする」といわれているように、何でも食べられるようになった)。豚は蹄が分かれているが、反すうしないので清くないことになる。

 それでは、なぜ二つの条件が提示されているのであろうか。実は諸説あり、決定的な答えはない。衛生上の理由がしばしば提案されてきた。豚のような雑食性の動物は衛生上、危険性が高かったので、食べるのを禁止されたのではないか-という説である。だが「清くない」とされる動物は豚だけではなく、説得力に欠ける。そこで、これまでで一番蓋然(がいぜん)性(確からしさ)が高いと思われるのは、アレゴリー(寓意(ぐうい)=ある意味を別の物事に託して表すこと)説である。つまり、古代人は「蹄が分かれている」と歩みが確かになるということを観察し、それが「信仰の歩みの確かさ」につながると解釈したのではないか。そして「反すうする」姿は、神の言葉を繰り返しかみしめることにつながる-と解釈したのではないかというのである。

 確かに筆者の愛犬は肉球で歩くためか、雨や雪で滑りやすいようだ。そして以前、長野県高山村で見た反すうするニホンカモシカを思い浮かべてみると、なるほど瞑想か哲学にふけっているようにも見えるのである。その故か、牛は人の罪を背負うことができる動物であり、旧約聖書においてしばしば神に捧げられているのである。