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酪農と聖書⑤ 避けて通れない「動物倫理」と「5つの自由」

掲載日:2019.03.04

酪農学園大学獣医学群
獣医学類(獣医倫理学)准教授

髙橋 優子

 

 近年、「動物倫理」について以前よりもずっと厳しい基準が要請されるようになっている。それは酪農に携わる人たちにとっても、将来的に避けられない変化を予測させる。具体的には、家畜の“福祉”を一層向上させねばならないということだ。畜舎の改築など経済的負担を伴う要請もあるであろう。もちろん、牛は酪農家の財産であるから、今までにも酪農家は牛を大切に飼養してきたはずであるが、より一層厳しい基準が課せられることになるのである。イギリスで提案され、今や世界基準となっている家畜をはじめとする動物に対する「5つの自由」(①飢えと渇きからの自由②不快からの自由③痛み・傷害・病気からの自由④恐怖や抑圧からの自由⑤正常な行動を表現する自由)の基準を完全に実施する義務などがそれである。

 しかし、このような流れの中でも、現場を知らない人の思い込みにより、牛の福祉が逆に侵害されるということも起こり得る。例えば、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定の話し合いの中では「牛を完全放牧で飼う」ことを、参加各国の基準にすることが提案されていた。スイスや北海道の放牧風景を思い浮かべると、理想的な気がする。だが、獣医学者や畜産学者の意見は違う。ニュージーランドなど実際に完全放牧で飼われている牛は「かわいそうだ」という。雨や雪もしのげず、寒くても戻る畜舎がない。“自然状態”に近づければ動物は幸せかというと、必ずしもそうではないのだ。ある専門家は、ニュージーランドで寒さに震え、互いに身を寄せ合う牛たちを見ると「お前ら過酷だなあ」と声を掛けてしまうという。

 テンプル・グランディンという有名な米国の動物行動学者は「なぜ、動物の権利を侵害する(殺害して食べるための)“と場”の設計などに携わるのか」と聞かれ、答えを考え続けてきたという。いつもと同じく落ち着いて“と場”へ向かう牛を眺めながら彼女は、肉牛は食べるために育てられなければそもそも存在していなかったのだから、牛は不幸ではない-という確信を持った。生きているときは大切に扱われ、苦痛の少ない方法でほふられる牛は決して不幸な動物ではないというのだ。人は自然状態の動物が最も幸せだと考えがちだが、必ずしもそうではない。野生動物はしばしば激しい苦痛を伴う死を迎える。しかも、安楽殺もしてもらえない。家畜は必要な治療を受けるし、必要なら安楽殺によってそれ以上の苦痛から解放してもらえる。

 聖書を基に「動物倫理」を考えるアンドリュー・リンゼイのような神学者は、動物との“友情”を基礎に考えることを提案している。この場合、菜食主義を採用することになる。友達を食べるわけにはいかないからである。しかし、聖書が元来それを求めていると考えるには無理がある。確かに将来のユートピア(理想郷)のイメージにおいて、捕食関係が消滅するように見える聖書の箇所は存在する。しかしそれまでの間、家畜を飼いそれを食べることは当然予定されているのである。