ジャーナル・アイ

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酪農と聖書⑧ 宗教文化と動物倫理

掲載日:2019.06.18

酪農学園大学獣医学群
獣医学類(獣医倫理学)准教授

髙橋 優子

 

 毎年5月下旬から3週間、米国のフィンドレー大学からの研修生が酪農学園大学で学んでいる。筆者も「獣医倫理学」の講義を担当しているが、2016年に初めて担当した時の研修生たちは、日本人やタイ人とは反応が違っていてとても興味深かった。彼(彼女)らは“獣医”ではなく、“獣医準備コース”の学生たちであるが、既に獣医クリニックなどでアルバイトをしていたり、自分の実家が酪農家であったりと、「動物についての経験はかなり多い」という印象であった。

 講義ではまず、西洋思想とそれが動物倫理に与える影響について説明した。フィンドレー大学は酪農学園大学と同様、キリスト教に基礎を置く大学であり、研修生は全員がキリスト教徒であった。それだけに「西洋のユダヤ・キリスト教的伝統がどのように動物を見るか」などに関しては全く問題なく理解してもらえた。簡単に言うと、西洋の伝統では「動物には霊がない」と考えるので、人間とは全く違うと考えられているのだ。もちろん、それは人間の絶対的優位性を決定づけ、歴史的には動物虐待や環境破壊の原因になったこともあったが、元来はむしろ動物と環境に対する人間の責任を生じさせる方向に機能する。

 次に東洋思想だが、特に日本の思想とそれが動物倫理に与える影響について説明した。これは当然、米国人には理解が難しいところである。日本の思想には仏教的・神道的背景があり、それが動物倫理に大きな影響を与えていると考えられる。神道のアニミスティック(精霊崇拝的)な思想は人間はもちろん、動物・植物、時には無機物にさえ霊(あるいは魂)が宿るとする。そして仏教は輪廻りんねの教理を持ち、現在人間である者が来世では動物になるかもしれないし、その逆もあり得るとする。しかも、神道と仏教は日本において密接に絡み合っているため、両者が相まって人間と動物の間の存在論的なハードルを下げることになる。それは“殺生”の忌避を決定づけ、動物の安楽殺さえためらうメンタリティーをつくり出す。人間と動物の間のハードルが下がると、動物への悪い扱いが減りそうなものだが、必ずしもそうはならない。保健所が処分する動物の数は最近、減少傾向にあるとはいえ毎年数万頭にも上る。特に動物を保護する責任感を生じさせるわけではないのである。責任は優位性と分かち難く結び付くからである。日本では動物倫理がもっぱら死後の“供養”という形で具現化されてきた。つまり、生きているときの改善策はほとんど講じられてこなかったということでもある。

 この時のフィンドレー大学研修生のリポートは、要約すると「日本の獣医師が手術をするときの衛生管理は人間の手術並みに完璧だが、米国ではもっと簡単である(筆者注:これは一般のクリニックと大学病院の違いも関係していると思われる)。そしてペットが死ぬと飼い主は悲しむが、慰霊祭などは行われない。それは宗教文化が違うからである」という内容であった。

 日本の獣医学教育が国際的基準を満たす過程で、文化的背景の違いによる動物観の相違を説明しなければならない場面は既に生じている。西洋思想は獣医学と親和性がある-とつくづく思う。酪農学園大学の理念は、この点からも必然的なものといってよい。