ジャーナル・アイ

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その他

歴史的文脈の中の牛とそれに携わる人々

掲載日:2019.07.17

酪農学園大学獣医学群
獣医学類(獣医倫理学)准教授

髙橋 優子

 

 文部科学省(日本学術振興会)のプロジェクトで、東京大学・北海道大学・酪農学園大学とタイのカセサート大学(チュラーロンコーン大学もリストには載っていたが、交換留学には参加していない)の獣医学部が協力して実施する『AIMS』(大学の世界展開力強化事業「海外との戦略的高等教育連携支援」)というものがある。同事業は5年間のプロジェクトで、日本の獣医学生とタイの獣医学生を毎年3カ月ずつ交換留学させるというものだ。学生たちはそれぞれ異文化の中で、獣医療にも文化的相違があることを学ぶ。ただ留学するだけでなく、単位も認定される。事業は2017年度で終了したが、筆者は2016年、タイのカセサート大学で行われた上記4大学の教員が集まる“説明会”に本学から参加した。タイの親たちはとても教育熱心らしく、この説明会には23~24人の学生たちとほぼ同数の親たちが参加した。トータルで50人弱になる。関心の高さが感じられた。

 この説明会の後、カセサート大学の先生が筆者を含む日本の教員たちを小さな観光に連れて行ってくれた。「ひと月前に新しくできた」という王室ゆかりの博物館にも行った。博物館のあるエリアには、タイ国王ご夫妻の住む場所もあった。当時の国王ご夫妻はお二人ともご高齢で入院中であり、そこには住んでいらっしゃらないということであったが、とても意外なものを目にした。宮殿の柵のすぐ向こうに、見慣れたホルスタインの柄と顔が見えたのである。「こんな所に牛がいるなんて…」とうれしくなった。聞けば、いつぞやオランダから贈られた牛だそうで、今も80頭の乳牛が宮殿内で飼われているのだという。その牛の牛乳から作るミルクキャンディーが、中国人観光客に人気だということも耳にした。

 現在、タイでは牛肉の消費が増加傾向にある。しかし、以前はあまり食べられていなかった。カセサートから来た留学生に理由を尋ねると、口をそろえて「大きいから…」と答えたので驚いた。上座部仏教の盛んなタイにおいて、肉食が否定的なイメージで捉えられるのはある程度予想していたが、豚などが普通に食されるのに対し、牛を食べるのに抵抗を持つ人が多い理由が“サイズ”だとは思わなかった。

 何が食べ物で何がそうでないかは、必ずしも論理的な理屈では割り切れない。ヒンドゥー教のインドでは、牛が神聖な動物と考えられており食されないが、元は「農耕用の牛が食べられてしまわないように作られたルール」だという説もある。日本でも江戸時代までは仏教思想の影響で、牛もほかの動物の肉も食べる(表向きの)習慣はなかった(実際にはある程度食されていたようであるが…)。明治時代の「文明開化」以来、牛鍋などにして廃用牛を食す習慣が始まったようだ。それでも不殺生戒ふせっしょうかいは日本人の心に影を落としており、食べることは棚に上げて、それを直接ほふる仕事にだけ破戒を見るという都合のよい習慣をつくり上げた。そして、このようなメンタリティーが日本での酪農家や獣医師の社会的地位の不当な低さにも影響している。

 黒澤酉蔵翁が、西洋思想と西洋的食習慣をセットで導入すべく努めたことは必然であったといえる。