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酪農と聖書⑩ 詩篇23篇にみる「動物倫理」

掲載日:2019.08.20

酪農学園大学獣医学群
獣医学類(獣医倫理学)准教授

髙橋 優子

 

 詩篇23篇は、旧約聖書の中でもよく知られた箇所である。それは、この詩篇が葬儀の際にしばしば引用されるからである。外国の映画でも葬儀の文脈でたいてい使用されている。しかし、この詩篇は葬儀のために作られたものではないし、内容的に葬儀を扱っているわけでもない。全体としてこの詩篇は、神を羊飼い、人間を羊にたとえて「神の人間への愛と、人間の神への信頼」をうたった箇所なのである。最もよく使用されている『新共同訳』でこの詩篇を読んでみたい。

 「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(2節)。ここでは羊であるが、牛でも同じである。パレスチナのような乾燥地帯において、動物に青草と水を与えることは羊飼いにとって簡単なことではない。しかし、動物を飼って人間の役に立てようとする限り、どんなに苦労しても、飼い主は羊に草と水を確保してやらねばならないのである。

 さらに、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない」(4節)という言葉が続く。ここに“死”という語があるので葬儀を連想されるのかもしれないが、これはヘブライ語では「たとえ~であっても~ない」という“反実仮想”の形になっており、「たとえ死の陰の谷を行くようなことがあったとしても、私は災いを恐れない」というのが本来のニュアンスである。もちろん、神である羊飼いが“わたし”を守ってくれるという確信があるので、通常なら命の危険を感じるような場合でもそれを感じなくても済む―という含みがある。ただ、今現在そのような危険にあっているというのではなく、あくまでも“仮定”の話なのである。

 具体的には「あなたのむち、あなたのつえ」(4節)が安全を保障してくれるというのであるが、これは基本的に羊を襲おうとする動物を追い払うための武器を指している。羊のような武器を持たない動物は、オオカミなどに襲われたらひとたまりもない。しかし、羊飼いは鞭や杖を常備しており、それによって羊を狙う捕食者を撃退するのである。時々、この“鞭や杖”は羊に対して用いられると誤解されるが、羊に対する懲らしめのために用いられることはない。あくまで羊を守るために使用されるのである。

 「わたしを苦しめるものを前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯をあふれさせてくださる」(5節)は、再度“草と水”を用意してくれることと、頭に油を塗ってくれることについて言及している。頭に油を塗る理由は、羊の鼻の中に入って羊を悩ませる虫から羊を守るためである。“香油”もまた葬儀を思わせる要素となり得るが、ここではあくまで生きている羊の幸せのために用いられる油を指している。

 6節は「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう」という言葉で詩篇を閉じている。“命ある限り”いつも十分な世話をしてもらえる、“生涯”羊飼いが面倒を見てくれるというのである。“生きているとき”動物を大切にすること、それが聖書の強調している点なのである。