世界の乳文化図鑑③ 遊牧民が伝えてきた発酵乳
掲載日:2020.01.30
酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美
西欧での歴史は新しい
日本で発酵乳というと「牛の乳から作られるヨーグルト」が連想されます。このヨーグルトという言葉の語源は、古代東ヨーロッパの広い地域で使われながら、今では死語になったトラキア語の「腐った(ヨグ)・乳(ルト)」です。東ヨーロッパでは歴史的な経緯から、地域によっては“マッツオーニ”と呼ぶこともあります。
発酵乳が西ヨーロッパ社会に知られるようになったのは、意外にもロシアのメチニコフ博士(ノーベル医学賞受賞者)が提唱した「コーカサス地方の長寿は発酵乳の効果である」という不老長寿説によって大ブームが起きた故です。つまり、1900年代以降とまだ新しいのです。ヨーロッパでは小麦耕作と牧畜をセットで行ってきたことから、発酵乳も作ってきたと思われがちですが、乳はバターやチーズを製造するための素材でした。発酵乳は遊牧を生業としてきた人々が伝えてきた乳製品なのです。
トルコの食に欠かせない
アジアと西洋の間に位置するトルコは、はるか昔にヨーグルトの言葉を生んだトラキア人が暮らし、モンゴル系遊牧民がオスマン帝国を樹立し、1923年10月にトルコ共和国となりました。そのトルコの食は、ヨーグルトなしには成り立ちません。家庭単位で、つぼを発酵容器としてヨーグルトが作られてきました。この容器を洗うことは1年に一度あるかないかです。発酵状態を維持するため、あえて容器を洗わないのです。この発酵に関与する微生物を調べたところ、複数の種類の乳酸菌が分離され、その菌間には共生関係があり、独自の菌叢が構成されていました。
街角で売られているヨーグルトも、軟らかいものから、しっかりとしたカードを形成した豆腐のように立っているものまで見られました。もちろん、ゼラチンや寒天は入っていません。以前は、ヤギや羊の乳で作られていました。
しょうゆのような存在
トルコ料理は、フランス料理、中華料理とともに世界3大料理とされています。イスラム世界の食の情報は少ないですが、華やかな宮廷文化の下、料理に用いられた食材、香辛料の種類は豊富でした。味付けから盛り付けに至るまで洗練されており、「食べる楽しみ」を堪能させてくれます。
そこで重要な役割を果たしているのがヨーグルトです。日本ではデザートで甘い味のする食べ物というイメージが強いですが、トルコでは日本でのしょうゆのような存在で、さまざまな味付けに不可欠です。しょうゆが植物性食品である大豆を発酵させたものであるのに対し、ヨーグルトは動物性食品の乳を発酵して作ることから、素材としても対照的な調味料です。料理に少量のヨーグルトを加えることで、アミノ酸の一種であるグルタミン酸が中心となって味に深みと奥行きを与えることが科学的にも明らかになりました。羊料理“ケバブ”に使われるほか、羊肉のひき肉とナスを幾重にも重ねてケーキ状にした“ムサカ”にも欠かせません。さらに、出来上がった料理にソースとしてそれぞれの人が好みの量のヨーグルトをかけるのがトルコの食卓です。
こうして、発酵に関与する乳酸菌などの微生物が大量に腸管に入ります。これらの微生物は、今日“第2の脳”として話題になっている腸管免疫の働きに大きくかかわっていることが注目されています。ヨーグルトはおいしさとともに、人の健康維持にも大きく貢献してきました。われわれも発酵乳を料理に積極的に取り入れ、食べることでますます健康になろうではありませんか。