世界の乳文化図鑑⑤ 合理的な乳加工の知恵を伝承
掲載日:2020.03.18
酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美
子畜誕生の季節
3月は、わが国では旅立ちの季節。モンゴルの草原はまだ連日の氷点下ですが、子羊や子ヤギの誕生ラッシュです。放牧中の草原で子畜が生まれることもあります。生まれたての子畜は寒さが大敵で、草原で生まれた子畜を見つけると、遊牧民は袋に入れてゲル(移動式天幕住居)へ連れ帰ります。そのあとを母羊が付いていきます。
家畜の頭数が人口の10倍のモンゴルで、最も数が多いのが羊です。モンゴルでは長い間、種雄の生殖をコントロールして子畜の生まれる時期を集中させてきました。
母羊は自分の子以外には乳をあたえません。母羊は子畜と分けて日中放牧されるので、子羊に乳を与えるため、夕方には急ぎ足で帰ってきます。互いを探す母子の鳴き声が交錯する中、素早くかつ確実に母子を組み合わせるのが遊牧民の子供の仕事です。家畜に関する情報が頭に入っていなければできません。母羊はわが子をにおいで判別しているそうです。
遊牧民の子供たちは小学校に上がる前から自分たちにできる仕事を任されます。助け合って生きていかなければならない草原で、父母、祖父母は何でも教えてくれる人生の先輩なのです。
最初の乳は羊から
子畜が自力で歩けるようになるのを待ち、6月頃に遊牧民は冬営地から夏営地へ移動します。夏季は搾乳量も一番多く、活力に満ちた季節です。
1990年代までは羊の搾乳も行われていましたが、21世紀に入り、その姿を見かけることは少なくなりました。しかし、遊牧民に1年で最初に乳を与えてくれるのが羊であることには変わりません。
子畜が生まれて間もない一時期、日常の乳とは異なる成分と色を持つ“初乳”をストーブのそばで温め、「オーラク」という乳製品を作ります。ほろ苦いプリンのような食感で、競って食べるとともに乾燥させて保存し、体調の悪いときなどは薬代わりに食べてきました。初乳の持つ“免疫賦活作用”を経験的に知っていて、それをうまく活用してきたのです。
測定器なしで見事な出来
一見、無造作に見えるモンゴル遊牧民の乳加工ですが、ある時、訪問した遊牧民宅で「日本では伸びるチーズというのがあるそうですね、作ってあげましょう」と、その場で作っていただいたことがあります。もち状によく伸びる見事なチーズでした。pHメーターや温度計といった、今日われわれの乳加工で欠かせない測定器が皆無な草原で、微妙なpHによる乳の違いを経験的に把握してきたのです。
「タラグ」(ヨーグルトの一種)を作るとき、自家製の発酵乳をスターターとして加えますが、加熱した乳を指にかけて温度を確認します。その温度はまさに発酵至適温度です。乳加工時にでる「シャルトス」(ホエー)も無駄にせず、専用の発酵容器に加えて発酵を進め、次の乳加工の材料にします。この容器中の温度もまた、夏季にはどこの遊牧民宅でも25℃付近でした。暑い日は発酵が進むのを抑えるために攪拌しないなど、乳科学的にも全く合理的な知恵が伝承されてきました。その知恵を生かし、大きな鉄鍋、おたまなども調理と同じ簡素な道具により、再現性のある乳加工がモンゴルの草原で今日まで営々と行われてきたのです。
乳製品の本来持っている味に触れるため、この夏、モンゴルへの旅はいかがですか。