ジャーナル・アイ

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食品

世界の乳文化図鑑⑬ 一匙のアイスクリームや蘇る

掲載日:2020.11.18

酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美

明治2年に横浜で初めて販売

老若男女に愛されてきたアイスクリーム。赤く燃えるストーブのそばでアイスクリームを溶かしながら食べるのは、北国の冬の楽しみの一つといえましょう。そのおいしさを支えているのが良質の牛乳ですね。今回はアイスクリームにまつわるお話をしましょう。

わが国でアイスクリームが初めて販売された時期と場所は、異説もありますが、1869(明治2)年の横浜とするものが多いようです。1878(明治11)年には東京の『風月堂』で大々的に売り出されました。翌1879(明治12)年に銀座で開店したアイスクリーム店の名は、なんと『函館屋』だったそうです。店名の由来は店主が“箱館”生まれだからで、アイスクリームの作り方を箱館戦争時、五稜郭で旧幕軍に参加した軍事顧問団のフランス人士官から習ったそうです。こんなシーンのある幕末ドラマを見てみたいものですね。

特別な食品

「災害は忘れた頃にやって来る」の警句で知られる物理学者の寺田寅彦は、1892(明治25)年に銀座で食べたアイスクリームについて「アイスクリームのバニラの香味が何とも知れず、見たことも聞いたこともない世界の果ての国への憧憬しょうけいをそそるのだった」と随筆に記しています。ちなみに寺田寅彦は、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の水島寒月のモデルです。

続いて明治期に、短歌、俳句の革新を行った正岡子規。子規は司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主要登場人物の1人で、夏目漱石と親友でした。東京で脊椎カリエスの闘病中の1899(明治32)年8月、小康状態のときに人力車で弟子の高浜虚子宅を訪ねた折、アイスクリームを勧められて2杯食べたそうです。帰宅後、「この味5年ぶりとも6年ぶりとも知らず」と記しています。喜んだ虚子は後日、アイスクリームと西洋料理を子規の元に届け、その礼状に子規は「一さじのアイスクリームや蘇る」と記したのでした。これは5、7、5で俳句です。短い時間でも、アイスクリームの味にどれほど慰められたことでしょうか。まさに、アイスクリームは特別な食品なのですね。

作り方を記した小説も

病気が進行し、寝たきりとなった子規にとっての楽しみは毎日の食事で、随筆『仰臥漫録』にその内容が簡潔に記されています。「牛乳」「ココア入りの牛乳」「紅茶入り牛乳」の文字が散見され、牛乳が子規の大切な栄養源だったことがうかがえます。

子規が亡くなった翌年、村井弦斎が後に料理のバイブルといわれるようになった小説『食道楽』を出版しました。そこには、家庭におけるアイスクリームの作り方が記されていました。日本は、さまざまな情報を速やかに活字を介して配電盤のように広く伝えていく国のようです。

ハレの気分を味わう

向田邦子のエッセーに「アイスクリームを食べに銀座に行く」ことが、東京で昭和の時代を過ごした子供にとって晴れがましいお出掛けだったことが記されています。“ハレの気分”を味わうアイスクリーム。背筋を伸ばしてお店に食べに行きたくなりました。