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食品

世界の乳文化図鑑⑲ 馬乳酒の発酵容器

掲載日:2021.05.18

酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美

家畜の皮を利用

前回は、最近のロシアで起きている民族飲料「クミス」(馬乳酒)の再評価の動きについて紹介しました。その馬乳酒の製造には専用の発酵容器が欠かせません。遊牧生活で身近な素材といえば家畜の皮です。草原では、これまでさまざまな家畜の皮から多様な容器が作られてきました。特に7歳ほどの牛の1枚皮ともなれば、その大きさと耐久性故にとても重宝されたのでした。チーズの起源も「乳を入れた皮袋が馬やラクダの背で揺られることで固まったから…」との説が流布しています。

馬乳酒の原初の発酵容器も、当然ながら皮袋だったことでしょう。しかしながら、年月を経るとその材質故に土に返り、私たちがかつての人々が作った発酵容器として見ることができるのは、近い過去のわずかなものだけなのです。

微生物のすみか

馬乳酒の発酵容器に最もよく用いられてきたのは牛の皮袋で、そのほかに木おけも使われてきました。こうした天然素材は、そのミクロレベルの隙間に発酵に関与する乳酸菌や酵母などがすんできました。乾燥に強く、いざとなれば氷点下80℃の超低温にも耐えられる微生物の能力は、さすがは地球最古の生物ですね。こうした微生物は馬乳酒の発酵容器に馬の生乳が入ると、容器内で“共生関係”を構成して発酵を進めてきました。遊牧民が馬乳酒の発酵に用いる皮袋では、毎年「馬の生乳を入れて攪拌かくはんするだけで馬乳酒ができた」といわれています。

遊牧民は経験的に馬の乳以外の乳は混ぜず、その発酵状態に連日注意を払い、再現性のあるわが家の味を作ってきました。こうした皮袋の容器が近年になって大型ポリ容器に変わり、微生物がすみ着くことができなくなりました。馬乳酒の味は乳質のほか、こうした微生物のスターターや容器によっても微妙に変わるものなのです。

博物館に手掛かりが

馬乳酒の製造が今日も盛んなのは、伝統的な遊牧生活の形態を色濃く残すモンゴルです。ユーラシアにおける馬文化の発祥は「スキタイ族がいたカスピ海沿岸」といわれ、筆者の調査地域もヤクート、ロシア、キルギス、カザフスタン、中国内蒙古うちもうこ自治区、新疆しんきょうウイグル自治区と広がってきました。こうした地域でも、皮袋の発酵容器は過去のものとなっていました。

加工の手掛かりを探すには、その土地の博物館への訪問が欠かせません。ロシアのバシキールでは時代物の発酵容器に出合いました(写真1)。博物館は世界共通の“知の宝庫”で、さまざまな素材、形態の発酵容器と、過去の時間をさかのぼって出合ってきました。さらに、飾られた何気ない生活風景の絵画の中に目的の発酵容器を見つけたことも…(写真2)。こうした皮袋製の発酵容器が生活にいかに密着していたかが伺えます。

日本の国立民族学博物館の収蔵庫で馬乳酒発酵容器を視察した際、実際の展示は収蔵品の2割ほどで、8割は収蔵庫にあることを知りました。そのために展示替えが行われているのですね。各国の博物館で、その地域の家畜と人とのかかわり、独自の乳の利用方法が紹介されています。海外旅行の際、皆さんも博物館見学はいかがですか。

世界の乳文化図鑑⑲ 馬乳酒の発酵容器

写真1 バシキール博物館の馬乳酒皮袋(左)と革製の容器(右)

世界の乳文化図鑑⑲ 馬乳酒の発酵容器

写真2 バシキール博物館の絵画に描かれた馬乳酒の容器(右側)