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食品

世界の乳文化図鑑㉑ 伝統的な皮袋の発酵容器

掲載日:2021.07.13

酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美

「馬乳酒発酵容器100」

江戸後期に東北地方を広く旅した博物学者・菅江真澄の著作の中に、各地の臼ときねをスケッチした『百臼之図』があります。身近な臼と杵の地域による形状の差異に着目したものです。

百といえば『百物語』などがあり、日本人は“百”という数字にある種の特別な意味を持たせてきたようですね。私も『百臼之図』に倣い、『馬乳酒発酵容器100』として1996年から写真を含めた馬乳酒発酵容器の記録を続けてきました。馬乳酒の発酵容器が、ちょうど伝統的な皮袋から大型ポリ容器などプラスチック製の容器に変わる時期でした。

“蔵つき酵母”の役割

1枚皮で作られた皮袋は薄く、使用年数はおおむね10数年といわれていますが、これまでの調査での最長は写真1の皮袋の30年でした。亡夫の手製の皮袋を大切にしてきたとのことです。ちなみに写真を撮ったとき、皮袋はまだ乾燥した状態でしたが、私がすっぽりと入りそうな大きさでした。横のマチもたっぷりとあり、いかに遊牧民が馬乳酒を好み、大量に飲んでいるかが伝わってきました。

皮袋を作るのには7歳ぐらいの牛が最適とされ、雌の方が皮の質が良いといわれています。遊牧民ならではの乳加工における副産物を利用し、皮を丸ごとホエーに数日浸すことで軟らかくし、塩の入った熱水で煮て、手で毛をむしり取りやすくしてきました。そして、表皮を内側にして首の部分が袋の前面、でん部が後ろになるように半分に折ります。地域によっては首と臀部の前後を逆にして作っているところもありました。左右をミャンダス糸で手縫いするとき、皮の端をストロー上に丸めた中に馬のたてがみを小さな束にしたものを入れて縫い、乳の水分で皮が膨らむことによって漏れを防いできました。その後、数日間皮袋に乾いた草をぎっしりと詰めて形を整え、低温の煙を袋の中に入れていぶし、防腐効果を高めて完成です。

モンゴルでは馬乳酒を作る際、かつてはゲルの中に鳥居のような木枠を立て、皮袋を四方から皮ひもでつって中央部に固定していました。その年の一番初めに皮袋を使用するとき、乾燥した皮袋を水に浸して戻します。その間も皮袋の中の菌たちは生き延び、各家庭単位で独自の優勢菌そうを構成し、その家独自の馬乳酒の味を生み出してきました。日本の酒造の“蔵つき酵母”の役割を皮袋が果たしてきたといえましょう。

かつては皮袋の再利用も

皮袋の漏れの修理には、硬い自家製チーズを詰めたり、乳脂肪を塗ったりと乳製品が利用されてきました。また、かつては古くなった皮袋をサンダルやブーツの靴底などに再利用していました。こうした利用が草原の暮らしには欠かせませんでした。しかし、今ではサンダルもほとんどが市販品です。安価なプラスチック製の家庭用品も増え、それらを利用するサイクルも、かつての手作り品だった頃よりはるかに短くなっています。

現在、モンゴルの馬乳酒の発酵容器については、調査時期や場所が明らかなまとまった記録がなく、私の『馬乳酒発酵容器100』は、図らずもこれからモンゴルで馬乳酒の調査をする際に役に立ちそうです。暑い夏の夜、涼しいモンゴルの夕暮れに馬乳酒を攪拌かくはんする夢を見そうです。その容器はもちろん大きな皮袋でしょう。

世界の乳文化図鑑㉑ 伝統的な皮袋の発酵容器

写真1 大きな馬乳酒の皮袋

世界の乳文化図鑑㉑ 伝統的な皮袋の発酵容器

写真2 馬の搾乳を終えてゲルに帰るところ