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食品

世界の乳文化図鑑㉓ 海を渡ったミルクロード

掲載日:2021.09.24

酪農学園大学 農食環境学群 食と健康学類
教授 石井 智美

大陸から伝わった乳文化

世界地図に描かれた日本は、この地で生活するわれわれに実感はありませんが、ユーラシア大陸の東端の海上に弓状に浮かんでいます。ユーラシア大陸の文化の滴りを受け取るには、海で隔てられた格好の位置ですね。大陸から無数の“海上の道”を介して、多くの人や物が日本へたどり着きました。伝えられた文化は頂いたままの姿ではなく、取捨選択がなされて日本式にこなれていきました。

後漢に書かれた『後漢書』や『三国志』に「当時の倭国は稲や麻を植え養蚕をして絹を作っているが、牛、馬、虎、羊はいない」と記されています。今、日本にいる牛や馬などは5世紀頃に大陸から来たといわれています。自力で海を泳いで渡ることはできず、当然、人が一緒でした。すなわち、飼養する技術者とともに、乳の利用方法も“パッケージ文化”として日本にやって来たのです。

“蘇”や“醍醐”が食された

古墳時代から飛鳥時代に至る時期、渡来人が多く住んでいた地域では牛の乳を搾り、乳加工をする甘い香りが漂っていたことでしょう。伝来した乳製品の中に“蘇”や“醍醐”がありました。これらは一時、性質についての理解が混乱した時期がありましたが、今日では蘇は奈良県で復元され、販売されています。醍醐(おいしいの意味)から“醍醐味”という言葉が派生し、醍醐天皇という贈り名も生まれました。聖徳太子もこれらを召し上がったことでしょう。余談ですが、チベット仏教の寺院では、燈明に液状の乳脂肪を利用しています。ひょっとしたら、四天王寺などを建立した聖徳太子の仏様へのお供えの中に、乳製品があったかもしれません。

もう少し時代を経ると、租(物納の税)の一つとして“蘇”が平城京に運ばれていたことが、平城宮跡から出土した荷札である木簡によって明らかとなりました。ちなみに“乳”という字も、同時代の木簡に記されています。蘇は都が平安京へ移った後も、細々と租として都へ運ばれ続けました。「あの清少納言も蘇を食べたのでは…」などと想像してしまいます。

乳と食の新たな組み合わせ

2013年、日本のあらゆる食事、食の風俗がまとめて世界無形文化遺産に登録されました。日本の食の特徴として、豊かな季節感や食材の豊富さとともに“うまみ”と“だし”が挙げられます。西洋料理ではスープでも「獣の脂のうまみが重要」とされますが、日本のだしの材料には全く脂分がありません。かつお節の原料であるかつおの赤身に含まれる脂分も、微生物によって分解されています。乳製品のおいしさの一つが乳脂肪由来のコクであることも、日本の料理に乳製品が利用されなかったことにかかわっていそうです。

しかし、日本人にも平安期までは細々ながらも乳製品をおいしいと思う味覚がありました。今日、居ながらにして世界中の珍しい食品を手に入れることが容易になり、学校給食で牛乳を毎日飲む経験を持つ世代が人口の半数に達しました。多彩な食の体験を持ち、繊細なうまみや味わいが分かるわが国から、乳・乳製品と食の新しい組み合わせが生まれてくることでしょう。秋の夜長、ミルクロードに思いをはせつつ、新しいマイミルク料理を考えてみたいですね。

世界の乳文化図鑑㉓ 海を渡ったミルクロード

奈良県で復元され、販売されている“蘇”

世界の乳文化図鑑㉓ 海を渡ったミルクロード

平城宮跡から出土した木簡の原寸大のしおり